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【幸朋カウンセリングルーム】がある街、大阪
この記事を書いている私(ライター:T)は、真夏の大阪しか知りません。何度も行ったことがありますが、とにかく暑いです。生粋の道産子にとって大阪の夏は、生命の危機を感じるほどの過酷さです。大阪と言えばまず思い浮かぶのが、豹柄の派手な衣装をまとって大きな声で関西弁を喋る奥方なのですが、実際に行ってみると豹柄の派手な奥方を目にすることは稀なことなのでした。これはマスコミに刷り込まれた思い込みだったようです。ディープな大阪を知らないたんなる観光客の一人として、認識を改めねばならないと大いに反省しています。
大阪の見どころはたくさんありすぎて切りがありません。観光には最高の場所だと思います。たとえば、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)、通天閣、道頓堀、大阪城の天守閣、あべのハルカス、万博記念公園、四天王寺、新世界、令和元年に大きな騒動があった吉本興業(新喜劇)のなんばグランド花月、食い倒れの街(くいだおれ人形)、グリコの看板など、日本人であれば知らない人はいないでしょう。
それから、国宝に指定された仏像の数は京都や奈良にはかないませんが、大阪にもすごい仏像がたくさんあります。観心寺の如意輪観音坐像、葛井寺の千手観音坐像、道明寺の十一面観音立像、獅子窟寺の薬師如来坐像、金剛寺の大日如来坐像と不動降三世明王坐像は、あの世に行くまでに手を合わせておきたいものです。
ナニワのご当地グルメとしては、何よりもまず先にたこ焼きでしょうか。それからお好み焼き、串カツ、てっちり(フグのちり鍋)、カニ(北海道も負けませんが)、きつねうどん、イカ焼き、モミジのてんぷら、浪花酒造の日本酒などもあります。スイーツも豊富です。
さて、今回はこちらの【幸朋(こうほう)カウンセリングルーム】をご紹介します。ウェブサイトはこちらになります。→カウンセリングを大阪で|大阪堀江 幸朋カウンセリングルーム 大阪にある私設心理相談室で、開業は2008年からのようです。
幸朋カウンセリングルームの概要
カウンセリングルーム名:【幸朋カウンセリングルーム】
住所:大阪府大阪市 西区北堀江3-12-33 メゾン33 6階
TEL:080-5311-1021
代表カウンセラー:松波幸雄 甲南大学大学院 応用社会学研究科 博士課程単位取得修了 公認心理師
カウンセラー:中林朋子 甲南大学大学院 人文科学研究科 博士課程単位取得修了 公認心理師
ホームページ:http://www.koho-counsel.com/
アプローチ
個人を対象としたカウンセリングに加えて、並行面接、同席面接、家族療法、さらにスカイプによる遠隔カウンセリングも行っています。アプローチとしては、カウンセリング、夢分析、箱庭療法などがあります。
対 象
うつ・パニック障害・摂食障害、あるいは家族関係や人間関係の問題など、幅広い相談に対応しています。
料 金
初回・二回目以降とも、50分 6000円、60分 7000円、以降10分の延長ごとに1000円の追加料金。
【幸朋カウンセリングルーム】のホームページにはこんな一文があります。「幸朋のカウンセリングのもっとも一般的な流れとしては、「自分を知る」ばかりでなく「相手を知る」という方法をバランスよく進め、さまざまな勘違いから形成された劣等感コンプレックスを探索し、その解消を目指すことになります」。自分を知るばかりでなく相手を知る、ここがとても大切なことのように思われます。
一般的にカウンセリングは自分の内面に目を向け、耳を澄ますので、内的世界にばかりエネルギーが注がれがちになります。しかし、それだけでなく、外的世界に目を向けてみることの大切さも忘れてはならないと思います。
箱庭療法や夢分析を行っていることもあって、【幸朋カウンセリングルーム】はユング心理学への指向性が強いように思われます。しかし、ウェブサイト、ブログ、SNSなどに発信された多くの情報から、そのような指向性には収まりきらない、唯一無二の個性を放つカウンセリングルームであると思います。日本のセラピー文化の中にあって、業界の常識?にとらわれずにクライエントと真摯に関わっていく姿勢は、あくまで個人的な感想ですが、ミルトン・エリクソンの臨床に通じているような気がしています。
「臨床心理士資格の返上」記事に触発されて
松波先生と中林先生の両先生は、理由があって臨床心理士の資格を認定協会に返上したのだそうです。自主的な返上であって、登録の抹消ではありません。松波先生が2009年、中林先生が2013年の返上です。両先生のサイトとブログの記事を偶然に発見して拝読してみて、この件にとても興味を持ちました。両先生の【幸朋カウンセリングルーム】をご紹介したいと思ったのは、そのためです。
これから書く文章は、両先生の資格返上とその理由を肯定したり、否定したりすることを目的としているのではありません。あくまで、お二人の記事を読んで触発された自分の考えを書き記すことが目的です。いま2019年ですからお二人が資格を返上してから10年くらい経過していますが、古くて新しい、われわれにとってとても重要な問題であると思います。興味のある方は、是非お二人のサイトとブログの記事をお読みください。
お二人の記事を拝読して、いくつかの問いが浮かんできました。セラピストはクライエントに対して自己開示してはいけないのか? クライエントはセラピストの劣位に置かれているのか? この二つに対する私なりの答えを以下に書こうと思います。
セラピストはクライエントに対して自己開示してはいけないのか?
セラピストの自己開示に関する研究がいくつもあって、現代では、全く自己開示をしないセラピストよりも自己開示するセラピストの方が、クライエントと良好な関係性を構築しやすいことが分かっています。全く自己開示しないセラピストは、おそらく温かみのない印象をクライエントに与えるはずです。クライエントの質問に対して質問で返すような応答は、つまり人間味のない中立的・事務的な態度で自己開示を頑なに拒む姿勢は、現代ではもはや論外と考えられるでしょう。これは一般論です。「自己開示しちゃいけません」が一般的であった時代は、もう終わったのです。
ましてや、開業カウンセラーであるかぎり、いまや検索エンジンからのホームページへの流入だけでなく、SNSを介した流入なくして、カウンセリングルームの経営は成り立たないはずです。プライベートな情報をネット上で広く開示しながら、カウンセリング活動が展開していくことになるのです。
一般論はともかくとして、実際の面接場面では、対話の流れの中でどのようなコンテクストが構成されているのか、そのコンテクストにのってセラピストのどんなことが開示されるのかという、具体性が問われるはずです。もっと言えば、クライエントは誰なのか、セラピストは誰なのかという、個別的な「誰性」同士が結ばれた関係性も重要でしょう。言いたいのは、自己開示が推奨されるにもかかわらず、コンテクストを無視した自己開示は臨床的にありえないでしょうし、セラピストが誰彼の区別なくプライバシー満載の情報をダダ漏れにすることはないはずです。そこにいる二人にとって有意味な、自然な自己開示ができれば、何も言うことはありません。
自然な自己開示という表現をしました。何が自然であるのかは、土地柄によってもかなり違うはずです。たとえば、大阪と札幌を比較すると大阪の方が私的なことにオープンでしょう。しかし、同じ北海道であっても、都会の札幌と道内の地方では全然違っています。私が育った漁師町の田舎だと、あけすけにプライバシーが語られます。我が家のことを、家族よりもご近所の方がもっと知っていたりするのです。
さて、自己開示するのがよいとなると、今度は良好な関係性を作ることを目的として、計算された、計算しつくされた、意図的かつ作為的な自己開示になってしまう危険性が生まれるかもしれません。こうなると、かなり興ざめです。良好な関係性を構築する効果を再現しようとして意図的に自己開示を行うとすれば、それはひとつの技法として自己開示を行うことになるのです。
では、理想的な自己開示とは、どんな振る舞いなのでしょうか? おそらく、何の意図もなく、なかば駆り立てられるかのようにして、つい口から零れ落ちるような自己開示の言葉、これが理想でしょうか。「言っちゃった」という感じになるでしようか。格好よく言い換えると、再現性とは無縁な一回限りの自己開示、目の前にいるこの人と、この瞬間以外にはあり得ないような、極めて特殊で特別な自己開示が理想でしょうか。クライエントによって、コンテクストによって、自己開示はその情報量も深さも異なるはずです。そして、ある時のあるクライエントに対する自己開示を、他の時に他のクライエントにも行って、狙ったように同じ結果を再現することは不可能なのです。
無理やりにでもまとめてみましょう。
セラピストはクライエントに対して自己開示してはいけないのか? いけないわけがありません。自己開示しましょう。ただし、セラピストの自己開示は、何かを狙ってその手段として行うのではありません。それは、一人の人間としての純粋な行為なのです。みずからではなく、おのずからの自己開示。
ここまで書いてみて、精神分析のフェレンツィ・シャーンドルのことを思い出しました。彼はクライエントと相互分析を行ったことのある臨床家です。現代的なピアカウンセリングに近いのかもしれません。そこではセラピストとクライエントの役割が交代するわけですから、たんなる自己開示だけでは終わりません。次の問いに連なることですが、対等な関係性をセラピーの極限で実現しようとした試みなのかもしれません。
さらにフェレンツィの先を行く臨床家もいました。それは、精神分析のウィルヘルム・ライヒの教えを受け、米国自我心理学の末裔にあたるデイヴィッド・シャピロに多大な影響を及ぼしたヘルムート・カイザーです。彼のアイデアは世界的に著名なアーヴィン・ヤーロムの『ニーチェが泣くとき』に取り入れられています。次のような極限の場面設定です。あるセラピストAが患者になりすましてセラピストBのセラピーを受けに行く。セラピストBは最近心身の不調が続いていて、セラピーが必要な状態。患者になりすましたセラピストAは、セラピーを受けることによってセラピストBの回復をもくろみます。セラピーを受けることが相手に対するセラピーにもなる、とでも表現できるでしょうか? セラピストBは相手にセラピーを行っているという意識にもかかわらず、自らの不調が次第に回復していくのです。
パラドキシカルで、まともな?カウンセリング教育を受けた者には何が何だか分からないはずです。シャピロはこのようなカイザーのことを “unusual”と評価していました(私信)。でも、私にしてみると考えさる(北海道弁)ところが大きく、教科書では学ぶことのできないセラピー関係の本質が見え隠れしているように思えるのです。
クライエントはセラピストの劣位に置かれているのか?
伝統的なセラピー文化の中では、クライエントはセラピストの劣位に置かれてきました。残念なことです。ブログに、こんな言葉を見つけました。
「ほとんどのカウンセラーは、クライアントをはなから劣等者・歪みのある者と決め付け、一方カウンセラー自身を優越者だと思い込んでいると言わざるを得ない。」
この言葉がツイッターに書き込まれたとしたなら、「いいね」したくなります。歴史的なお話になりますが、黎明期の精神分析はまさにそうでした。専門性のあくなき追及、プロフェッショナリズムの裏面ですね。そんな精神分析に対する批判からロジャーズの来談者中心療法が生まれたわけですが、晩年の彼はともかく、態度条件の論文を書いた頃だと、まだまだ劣等者のクライエントというニュアンスが「一致」「不一致」の概念に残っていたように思います。セラピストは一致していて、クライエントは不一致の状態にあるというわけですから。
松波先生と中林先生の両先生は、このような既存のセラピー文化に対する「違和感」から臨床心理士の資格を返上したものと私は理解したのですが、ここでセラピー文化の歴史について少し考えてみようと思います。
1980年代から1990年代にかけていわゆるナラティヴ・ターン(物語的転回)が起こり、既存のセラピー文化に対するプロテストが巻き起こりました。思想状況はすでにモダンからポストモダンの時代へ移り変わっていたのですが、セラピーの世界も遅ればせながらナラティヴが重視されるようになっていったのです。ナラティヴ・セラピーのマイケル・ホワイトを筆頭に、アンダーソンとグーリシャンのコラボレイティヴ・セラピー、アンデルセンのリフレクティング・プロセスなど、いわゆるナラティヴ・アプローチが日本にも紹介されました。
彼らは既存のセラピーに違和感を感じて、独自のセラピー・スタイルを編み出しました。思想的には社会構成主義や脱構築の哲学を背景としています。最大の特徴は、既存のセラピー文化にはらまれていた権威的な構造を脱構築して、クライエント-セラピスト間の一方的な性格を排したコラボレーションと、クライエントの生きた語りを重視したことであると思います。
セラピー文化の権威的構造をフーコーなどの思想を駆使して脱構築しようとしたのはマイケル・ホワイトでしたが、それについて言語システム論の視点から論じたアンダーソンとグーリシャンの論文も強い影響力を持っていました。アンダーソンとグーリシャンの主張を私なりに要約すると、以下のようになるでしょうか。
これは医学モデルと呼んでもよいと思うのですが、これまでの既存のセラピー文化では、治療の前に診断のプロセスが置かれるのが常でした。治療者には、クライエントを一方的に診断して治療するような、何とも特権的な位置づけが与えられていたのです。彼らはクライエントの優位に立つ特権的な地位を放棄します。セラピストが一方的に診断を下すのではなく、クライエントとセラピストが協働して何が問題であるのか定義し、対話を継続させていくのです。セラピストは無知の姿勢を保ちます。そして、クライエントこそが自分自身の専門家であると宣言されます。クライエントの症状が改善されるとすれば、それは継続的な対話の副産物であるとみなされます。考え方としては、医学モデルにおけるように、対話は治療のための手段ではありません。対話することが目的であり、相手の人格それ自体が目的であり、治療のための手段として対話を継続させるのではないのです。
ナラティヴ・セラピストたちは、このような姿勢でクライエントと関与します。既存のセラピー文化に対して違和感をもちながら、それとは一線を画するようなアプローチを行うのです。
心理テストの解釈本でよく見かける表現があります。たとえば「このタイプの患者は人格が未熟で欲求不満耐性が脆弱である。衝動コントロールに難があり、容易に……」などです。このようなジャルゴン、権威的な専門知によってクライエントを一方的に診断するようなことは、ナラティヴ・セラピストであれば拒否するでしょう。そうすることに強い違和感を持っているからです。
エーリッヒ・フロムの『聴くということ』の序文を書いているライナー・フンクは、その中で、事例検討会などでは様々なジャルゴンが飛び出すが、それは患者に対する「レイプ」であるという趣旨のことを述べています。われわれ臨床家は、みずからに問わねばならないと思います。クライエントについて語るその言葉は、いま目の前にその人がいたとしても使える言葉なのか? 自分がナラティヴ・セラピストではないとしても、胸に手を当てて自問することがあってもよいはずです。
既存のセラピー文化にNOを突きつけると、クライエントはそのシステムの中に入ることができません。その中に入ってサービスを受けるためには、その世界のしきたりとして権威のある専門家に従う必要があるのです。これはポリティクスの視点から言っています。では、既存のセラピー文化の中で生きているうちに違和感を持ち始めて、結局のところNOを突きつけねばならないセラピストはどうなるのでしょうか。この点については、フロイトの精神分析サークルを離れていったオットー・ランクの例で考えてみることにします。
ランクはフロイトのお気に入りでした。医師ではありませんでしたが、後にユングが極めたような、神話や文学作品などの精神分析的解釈を得意としていました。しかし、いろいろなことが重なって、ランクはフロイトのサークルを離れてしまい、アンファンテリブル(恐ろしい子供たち)の一人として独立した活動を展開していったのです。ランクを排除する動きがあったのはもちろんですが、フロイトとそのサークルに対する違和感が、その離反の動機であったはずです。
エディプス・コンプレックス理論を否定するかのような出生外傷理論を唱えたことが、ランク排除の動きを加速させたことは事実なのでしょう。しかし、精神分析医の権威に対抗するような患者の言動がすべて抵抗と決めつけられるような雰囲気に、ランクは違和感を持っていたようです。そのようなわけで、彼は離脱します。自分が教育を受け、学んだ、大切なサークルから。
ここでの問いを見失いそうになりました。それは「クライエントはセラピストの劣位に置かれているのか?」でした。
この問いに対する答えです。確かに、伝統的なセラピー文化の中では、クライエントは権威のある(とされる)セラピストの劣位に置かれていました。しかし、モダンからポストモダンの時代に移行し、社会構成主義を背景とするナラティヴ・アプローチが出現して以降は、クライエントとセラピストの協働(コラボレーション)が自明視されつつあります。クライエントはセラピストの劣位に置かれるのではありません。いまや、クライエントは自分自身の専門家であり、セラピストはクライエントがナラティヴを生成するためのコンテクストを支える専門家であり、そのような意味で、互いが対等な関係性の中でカウンセリングが展開していくと考えられる時代になったのです。
おわりに
この記事は【幸朋カウンセリングルーム】をご紹介するために書かれたものです。しかし、書いているうちにいろいろなことが思い浮かんでホットになり、本来の目的をかなり超えた内容になってしまいました。というのも、松波先生と中林先生の両先生がネット上に残した痕跡、つまりクライエントとセラピストの関係性について真摯に、そして深く考え抜いた数々の言葉に「うたれた」からに他なりません。資格返上に至った両先生のお考えを肯定も否定もしないと宣言して書き進めたのですが、結果として好意的な内容になったのは、もちろん自分自身の臨床的な指向性が両先生と同じ方向を向いているか、指向性が違っていたとしても目指すべき目的地がかなり近いからなのだと思います。
ヘーゲルではありませんが、時代精神(絶対精神)によってどこかの誰かが射止められる、それがナラティヴ・ターンという現象の正体なのではあるまいか。ナラティヴ・セラピストがそうであったように、【幸朋カウンセリングルーム】の両先生も、「それ」によって射抜かれたのではないかと想像をたくましくしています。エス・ギプト(es gibt―it gives)、ハイデガーもそんな世界を看取していたに違いありません。
最後に、この記事は【幸朋カウンセリングルーム】のウェブサイトやブログを拝見して、かなり主観的に書かれたものです。ご相談をお考えの大阪の皆様は、直接 【幸朋カウンセリングルーム】にお問い合わせくださいますよう、よろしくお願いいたします。
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